
「ミシマサイコの会」(東海道箱根西坂〜三嶋宿)は、設立5周年が経過しホームページを開設しました(令和元年7月31日)。
東海道箱根西坂〜三嶋宿「ミシマサイコの会」ホームページでは、トップページに加え、「ミシマサイコの会」会員紹介・活動紹介(開催イベント、”豆州ミシマサイコ種まき体験会”の輪)、「ミシマサイコ」情報・栽培情報、サイコ/柴胡、ミシマサイコの効能、外部リンクページなどがあります。「ミシマサイコ」をキーワードに本サイトに皆さまのお持ちの歴史的、または、科学的な情報諸々をお寄せ頂き本サイトに掲載させて頂けますと、大変ありがたいです。
勿論、情報提供以外、ご意見・ご感想も大歓迎です。
東海道箱根西坂〜三嶋宿「ミシマサイコの会」に興味のある方は、どなたでも会員登録しミシマサイコを盛り上げる活動を始めることができますので、いつでもご連絡お待ちしております。
⇒「ミシマサイコの会」 mishimasaiko-25@ca.thn.ne.jp
閲覧、ありがとうございます。
東海道箱根西坂〜三嶋宿 「ミシマサイコの会」では、「ミシマサイコの会」会員紹介にて記載のように2002年より ”豆州ミシマサイコ播種体験” を開催して参りました。播種会にて20年来使用されている ”豆州ミシマサイコ” の古郷は、「ミシマサイコの会」会員紹介【I】や「ミシマサイコ」情報【I】に記載のように豆州南伊豆町です。
先般、第1回の播種体験会を開催された大沼倶夫氏にお話をお伺いする機会がありました(2025/6/29)。 長年、ミシマサイコを愛でてこられた大沼氏は、本来、ミシマサイコが自生していた南伊豆・下田〜沼津アルプス・東伊豆〜函南・十国峠・熱海箱根峠・箱根西麓〜富士山麓・裾野・御殿場などの野山にミシマサイコが再び根付き、自然と共生していってほしいという、決して冷めることのない熱い想いを胸に灯し続けておられました。昨今の温暖化や異常気象、さらに陽当たりの良い丘陵地の土地利用や里山整備のあり方の変容により、環境条件が大きく変わってきています。発芽から初期生育までの成長が緩やかなミシマサイコにとっては、そうした中での自然との共生はいっそう難しくなっているのかと思われます。
これに対して、播種会/種まき体験会・ミシマサイコフェアなどを通じて ”豆州ミシマサイコ”のタネ提供は20年以上が経過しました。近隣にお住いの三島市民の皆さまをはじめ、静岡県内外よりご興味を寄せてくださった多くの方々に ”豆州ミシマサイコ” のタネを手に取って頂いたことと存じます。東海道箱根西坂〜三嶋宿発 ”豆州ミシマサイコ”、まだまだ野性の気配を残した、どこか気まぐれな薬草でありますが、皆さまの身近な環境の中で、元気に根付いてくれていれば幸いです。
【2026/10/4 更新!! 】江戸から明治へ―三島宿を支えた薬種商の営み―
<東海道の宿場町として栄えた三島>
江戸幕府は、開府後まもない慶長6年(1601)、三島宿をはじめとする東海道の宿駅伝馬制度を定めました。さらに、元和4年(1618)には、芦ノ湖畔の原野を切り開く形で箱根宿が設置されました。これにより、中世以来の古道を連結・整備した箱根東坂と、笹竹を刈り払い、竹を敷いて新たに整備された箱根から三島宿へ通じる西坂の篠道が結ばれ、東海道の一本の道として通行できるようになりました。
箱根旧街道は、三嶋大社(標高 25m)から箱根峠(標高 846m)まで約12kmを登り、箱根関所から小田原宿まで下る、全長約32kmの道です。この道は「箱根八里」と呼ばれ、平成30年(2018)5月24日には、静岡県内初の日本遺産に認定されました。また、三島宿から箱根関所までの旧東海道は「箱根西坂」と呼ばれています。その西側の起点に位置した三島宿は、「天下の嶮」といわれた箱根を控えた宿場として、また箱根越えを終えた旅人が「山祝い」をする宿として賑わいました。
さらに、三嶋明神の大鳥居前を東西に走る東海道からは、南へ下田往還(下田街道)、北へ甲州往還(佐野街道・甲州道)が分岐していました。東海道と二つの街道が交わる「四ツ辻の町」三島は、人や物が行き交う交通の要衝として発展してきました(「三島宿街並絵図 江戸時代」『三島宿〜いにしえの三島宿のにぎわいを求めて〜』三島市郷土資料館所収、2001年。一部を図1として転載)。
こうした交通の要衝であった三島宿では、旅人や地域の人々の暮らしを支えるさまざまな商いが営まれていました。その一つが、薬種を扱う商いでした。
<江戸時代の三島宿と薬種商>
天保14年(1843)以降に成立した『東海道宿村大概帳』によると、三島宿には本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠74軒があり、惣家数1,025軒、人口4,048人と記録されています。このように多くの人々が暮らし、また日々旅人が行き交った三島宿には、薬を扱う商人も存在していました。
土屋寿山氏の調査史料には、江戸時代の東海道三島宿の街並みが記録されています。「天保十三年(推定)三島宿町並図」(「伊豆史談」125号所収(1996)、一部図2として転載)には、薬種商として「甚兵衛」(伝馬町)と「甚左エ門」(久保町)の2軒が記されています。さらに、土屋寿山氏の「世古本陣の宿内軒並絵図」(「伊豆史談」120号所収(1991)、一部図3として転載)には、作成年代は明記されていないものの、江戸時代後期の成立と推定される世古本陣旧蔵の宿内軒並絵図が示されています。ここでは屋号も記されており、伝馬町の甚兵衛は「丸屋」、久保町の甚左衛門は「桔梗屋」とされています。また、田方郡吉田村(現在の伊豆の国市)から久保町へ移り、天保14年(1843)に創業したと伝えられる吉田屋半兵衛も、この時期の薬種商として名を連ねています。
この3軒の薬種商については、江川文庫所蔵の古文書にも関連する記録が残されています。そこには、幕末から明治にかけて、柴胡、南京甘草、角葛根などの薬種取引に関する記録が見られます。これらの史料から、江戸時代から明治期にかけて、三島宿では薬種を扱う商人が活動し、薬種の仕入れや販売を行っていたことがうかがわれます。
<明治時代―薬舗の役割が広がる>
時代が明治に移ると、三島の薬をめぐる商いにも新しい動きが見られました。
明治29年(1896)に刊行された『三島雑記』には、当時の三島町の商店が紹介されています。その中には2軒の薬舗が記されており、1軒は江戸時代から続く老舗の「丸屋」、もう1軒は大河貫之助が明治期に開業した「資生堂」です。さらに各商家一覧には、薬種商・原半三郎(久保)と、薬種商/薬剤師・小出貫一(久保)の名前も記されています。
また、明治37年(1904)に刊行された飯野恭三編『静岡県薬業家列伝』には、これらの薬業家についての伝記が収録されています。
『三島雑記』に記された資生堂と丸屋の紹介からは、当時の薬舗が単に薬を販売するだけではなく、調剤や医療器械の販売など、幅広い役割を担っていたことがわかります。
・調剤師 資生堂(久保町・大河貫之助)
「薬舗として製薬を販賣し、又た調剤をなす、顧客を地方医師に得、且つ各医家の處方を調剤す、都人士の病を養わんとして沿道通過のもの多く所持の處方箋に由り調剤を依頼して、緊急準備となすものあり、傍ら医療器械及薬用葡萄酒等を販ぐ。」
・薬種商 丸屋(伝馬町・山本甚兵エ)
「薬種商の老舗にして薬種・賣薬・職工用品・薫工類・洋酒等を小売し、且つ北豆地方に卸売し また熱海に支店を設けありて共に医家の需用に具ふ、其他歯科用金・銀・護膜・粘土及ひ小器械類を特賣し甲府・静岡、及附近に卸賣なし販路広し。」
(なお、掲載した史料の引用は原文の表記を尊重しましたが、旧字体や異体字の判読が困難な箇所については、判読に誤りや不十分な点が含まれる可能性があります。ご容赦ください。)
この記述からは、資生堂が地元の医師から処方を受けて調剤する一方、東海道を通行する旅人が持参した処方箋にも応じていたことがわかります。また、医療器械や薬用葡萄酒も扱っていました。一方、丸屋は薬種や売薬を小売するだけでなく、北豆地方への卸売や熱海への支店を通じて販路を広げ、医家の需要にも応えていました。三島宿の薬舗・薬種商は、地域住民だけでなく、街道を往来する旅人や周辺地域の医療需要にも対応する存在であったと考えられます。
☆大河寛之助と「資生堂」
ここで、『三島雑記』に「大河貫之助」と記された人物に注目してみます。
『静岡県薬業家列伝』には、伊豆国君沢郡三島町出身の「大河寛之助君傳」として、その足跡が記されています。『三島雑記』の「大河貫之助」と『静岡県薬業家列伝』の「大河寛之助」が同一人物であるかについては、断定はできませんが、現時点では同一人物、あるいは強い表記揺れの関係にある可能性が考えられます。
大河氏は若き日に東京で薬学の研究に励み、同志と諮って自ら発起人となり、明治19年(1886)に神田美土代町へ「薬学講習所」を創立しました。自ら教鞭を執る一方、薬品製造の実務にも携わったとされています。同講習所はその後、東京薬学校との合併を経て、明治21年(1888)に「私立薬学校」(現・東京薬科大学)へと発展しました。その後、明治22年(1889)に大河氏は故郷の三島へ戻り、薬舗「資生堂」を開業したと『静岡県薬業家列伝』に記されています。『三島雑記』に記された営業内容と合わせて考えると、明治期の資生堂は、地元医師の処方を調剤するだけでなく、街道を通行する旅人の処方箋にも対応し、医療器械や薬用葡萄酒なども扱う薬舗でした。ここには、江戸時代の薬種商から、近代的な薬舗へと移り変わっていく三島の薬業の一面を見ることができます。
☆三嶋大社門前丸屋に残る「大野一角丸」の掛看板
現在も三嶋大社門前で薬局を営まれる丸屋薬局を訪ね、山本勝宏氏からお話を伺いました。丸屋薬局は元和年間(1615〜1624)創業、第15代目とのことです。店頭のショーケースには、古い薬の商品名が記された外箱などが展示されており、店内で、大野傳兵衛商店「大野一角丸」の掛看板(図4左)を拝見することができました。
「一角丸」は、上総国東金(現在の千葉県東金市)の大野家が製造・販売した家伝薬です。大野家六代目の大野伝兵衛秀澄(1750〜1825)の時代に始められたとされ、小児用薬剤として知られていました。秀澄はこれによって財を成したといわれ、大野家では製薬した一角丸を広く販売し、江戸日本橋にも取次店を設けていたことが伝えられています。「大野一角丸」は、明治・大正から昭和中期にかけて全国に流通したとされています。
三島の地にいつ頃から伝わり、どのように販売され、実際に子どもたちに用いられていたのかについては、現時点では詳らかではありません。しかし、この「大野傳兵衛商店 大野一角丸」の掛看板は、東金で製造された家伝薬が広域に販売された流通の中で、かつて三嶋大社門前の薬店で一角丸が扱われていたことを示す地域資料であり、三島の薬業史を考えるうえでも興味深い資料です。
☆「神薬」と原薬館―東京の薬業とのつながり
一方、久保町の薬種商・原半三郎は、吉田屋半兵衛の系統につながる薬舗と考えられます。現在の「リヴ・よしだや」(化粧品・雑貨販売)を訪ねた際、吉田屋原晴之氏から、東京・室町資生堂の「神薬」と記された、原薬館宛ての掛看板を見せていただきました(図4右)。「神薬」は、明治5年(1872)に東京・銀座で創業した資生堂で販売された売薬で、気付けや水あたり、船酔い、虫歯など、さまざまな用途に用いられる万能薬として知られていました。
佐藤尚中(1827〜1882)は、順天堂医院の創始者として知られる医師であり、明治10年(1877)には師である松本良順とともに資生堂へ「神薬」と「清邪散」の処方を伝えたと記録されています。東京薬事協会の資料にも「本統神薬、佐藤尚中方剤」とする資料が残されています。
したがって、この掛看板は単に「神薬」という売薬を扱っていたことを示すだけでなく、三島の原薬館が、明治期の東京の薬舗である室町資生堂との薬業上のつながりを通じ、当時の新しい薬業の流れの中にいたことをうかがわせる地域資料として見ることができます。
☆小出貫一と「三嶋柴胡」
最後に、『三島雑記』に名前のみが記されていた薬種商/薬剤師・小出貫一に注目すると、『静岡県薬業家列伝』の「小出貫一君傳」には、「三嶋柴胡(ミシマサイコ)」と三島の老舗薬種商・甚左衛門とのつながりを示す重要な記述が見られました。
小出貫一の家系である小出家は、三島宿に暮らし、代々薬業を営んできた「薬商の旧家」であったと『静岡県薬業家列伝』は伝えています。同書によれば、貫一の曾祖父・甚左衛門は、当地の土地が柴胡の生育に適することを究め、地方の柴胡を集め、舟車によって都下(江戸)へ運び、都下(江戸)の薬店に広く売却しました。その品質は極めて良く、効能も著しかったため評判を高め、ついには「三嶋柴胡」の名が知られるようになったといいます。祖父は「義子」として家の声価を継ぎ、守成に努めました。その後、父・甚左衛門昌雄が、家業を引き継ぎました。列伝では父について「郷老」と記しており、薬業を営む一方で地域社会の世話役としても活動していたことがわかります。こうして小出家は、薬種商としての家業と家名・信用を継承するとともに、三島宿の地域社会を支える役割も担っていたと考えられます。
三島宿の街並みを示す史料にも、久保町の薬種商「甚左エ門」の存在が確認できます。天保13年(推定)の「三島宿町並図」には、久保町の薬種商として「甚左エ門」が記され、江戸時代後期の「三島宿軒内図」では、ほぼ同じ位置に屋号「桔梗屋」とともに「甚左衛門」が描かれています。さらに、文化庁が運営する「文化遺産オンライン」に掲載された三島の古文書からは、三島宿を支えた町役人として、「甚左エ門」または「桔梗屋甚左衛門」の名や印が、宝暦5年(1755)頃から確認できます。江戸後期にも、同名の人物が三島宿の役務に関わった記録が残されています。これらの史料を重ね合わせると、久保町の「甚左エ門」と「桔梗屋甚左衛門」は、同じ家・家業につながる可能性が高く、「桔梗屋甚左衛門」という名も、代々の当主が家名・屋号とともに受け継いだものと考えるのが自然です。ただし、各史料に記された甚左衛門がそれぞれ何代目に当たるのかについては、現段階では確定するまでに至っておらず、今後の課題として残されています。
小出貫一は明治4(1871)年に生まれ、私立薬学校第5回生として卒業しました。明治19(1886)年に家業を引き継ぎ、翌年には、手狭になった三島の本店に加え、富士郡吉原町への支店設立を図りました。こうして、小出家は、江戸以来の薬種商いの家業を明治という新たな時代に引き継ぎ、三島の薬業の歴史に確かな足跡を残したのです。
<三島宿の薬業が伝えるもの>
以上のように、旧東海道11番目の宿場町である三島は、東海道の整備によって人と物が行き交う交通の要衝となり、江戸中期以降には多くの庶民や旅人が往来する町となりました。また、享保年間(1716〜1735)頃には、お伊勢参りの流行や富士講の礎の広がりなどを背景に、東海道を往来する人々がさらに増えていきました。
徳川吉宗の享保の時代には、国産・輸入薬草の調査や栽培が奨励され、薬草園の整備なども進められました。こうした時代背景のもと、薬草や薬種の生産・流通も次第に活発になっていったと考えられます。三島宿においても、江戸中期から明治期にかけて、柴胡をはじめとする薬種が取り扱われ、丸屋、桔梗屋、吉田屋などの薬種商が活動していました。
明治になると、資生堂のように調剤や医療器械の販売まで行う薬舗が現れ、東京や周辺地域との薬業上のつながりも見られるようになります。そして現在、三嶋大社門前に残る「大野一角丸」の掛看板や「神薬」の原薬館宛て掛看板などは、当時の薬の流通や商いの姿を具体的に伝えています。さらに、『静岡県薬業家列伝』に残された小出貫一の記述では、三島周辺に自生していた柴胡が江戸へ運ばれ、「三嶋柴胡」として知られるようになったという、三島と薬草を結ぶ物語が伝えられています。
これらの史料をたどると、三島宿の薬種商は、単に薬を売る商人ではありませんでした。
街道を行き交う旅人、地域の医師、住民、そして江戸や東京の薬業界をつなぐ存在として、三島の町の暮らしと医療を支えていた姿が浮かび上がってきます。三島に残された薬種商の記録や古い掛看板は、こうした地域の薬業の歴史を今に伝える貴重な資料です。また、こうした史料をたどる中で、小出貫一の曾祖父が三島周辺で採取した柴胡を江戸へ送り、販売していたこと、そしてその品質や効能が評判となり、「三嶋柴胡」の名が広まったとする記述も確認できました。三島の薬業の歴史をたどることによって、柴胡が江戸の薬業と結びつき、「三嶋柴胡」と呼ばれるに至った経緯の一端が見えてきたことは、この地域の薬草文化を考えるうえでも、大きな成果の一つといえるでしょう。

【2026/2/20 更新!! 】 2026年 「ミシマサイコの会」講演会 開催報告
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≪ 2026年「ミシマサイコの会」講演会 ≫
日時:2026年2月8日(日) 14時 〜 15時半
場所:三島市市民活動センター 4階会議室(三島広小路 マックスバリュービル内)
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―ミシマサイコを現代に生かすー」
【講師】:薬剤師 鈴木 勝雄 氏
【講演概要】
当日は、雪の降る中50名の参加者が集まり、熱心に聴講された。
まず導入として、柴胡をはじめ多くの漢方生薬が古代から発見されてきた、その方法論と目される「象形薬理」という概念が紹介された。
例えば、クルミの実。これは健脳(脳の働きを良くする)を目的に薬膳などに用いられるが、それはクルミの実が大脳の形状に似ている発想から起こった。同様に、カシューナッツは腎臓の形と相似であることから、腎臓の機能を改善する効能があるとされた、等々。
この話はあとからミシマサイコに重ねて論ずるとのこと。
続いて本題に入り、ミシマサイコの植物学的特徴について解説。セリ科の一種であるが、普通のセリ科植物と違って、葉の形態がササのようで見るからにセリ科とは思えない。花の色も、一般には白花がほとんどであるが、ミシマサイコは黄色でまさに異色。すなわちセリ科の変わり種と言える。
では漢方薬の柴胡(根)として、ミシマサイコはどんな効果があるのか。
2つの効能が、この現代社会を救う鍵となる。一つは柴胡が《感染症を治す必須の薬》という側面。それには適応期があり、風邪やインフルエンザの初期(太陽病)には、発汗剤である葛根湯などが使われる。しかし4〜5日経過した少陽病の時期には。柴胡桂枝湯などの柴胡が入った薬でなければ治せない。葛根湯も柴胡桂枝湯も市販されているので、常備しておけば早めの風邪対策になる。(薬剤師など専門家に確認してから服用のこと。)
もう一つは、柴胡が《様々なメンタル疾患を改善させる効果》を持つこと。ストレス社会である現代は、不安や緊張、不眠などを訴える人も多い。そこで柴胡の「疏肝解欝(そかんげうつ)」という効能が、肝の気をスムーズにめぐらして、ストレスを緩和して心を楽にしてくれる。
メンタルの救世主と言ってもいいのである。
さらに、ミシマサイコの地上部(葉や花)の形態が「心をリラックスさせる」との象形薬理論を展開。花療法として日常、鉢植えや切り花でミシマサイコを観賞することも、健康改善に十分役立つことを推奨。
また、ミシマサイコの葉のお茶も現代に生かせる方法である。葉には「クロロゲン酸」というポリフェノールが多く含まれ、体内に発生した有害な活性酸素を除去して、健康を様々な方面で守ってくれる。
そこで講演会の最後に、ミシマサイコの葉を使ったブレンド・ハーブティー*の試飲会が催され、ジャーマンカモミールやペパーミントなど6種類のブレンドで淹れられた、温かいティーが参加者にふるまわれた。美味しかったとお代わりする人もいて、和やかな楽しい雰囲気に包まれて講演会は終了となった。
<*ミシマサイコの葉を使ったブレンド・ハーブティー 試飲レシピ>

【お知らせ 2026/1/11 更新!!】
「ミシマサイコ」講演会
・日時:令和8年2月8日(日) 14時〜15時30分
・場所:三島市民活動センター 4階会議室
・演題:様々な疾患から私たちをまもってきた郷土の薬草ーミシマサイコを現代に生かすー
・講師:薬剤師 鈴木勝雄氏(ミシマサイコの会会員、ときじく倶楽部)
「ミシマサイコフェア」
・日時:令和8年2月22日(日) 10時〜15時
・場所:楽寿園展示場

「ミシマサイコの会」
本会は、2014年2月23日、10回以上回数を重ねてきた三島自然を守る会主催の「ミシマサイコ学習会」にて、三島で絶滅状況にある可憐な黄色の花が咲く薬草ミシマサイコの復興を目指し17名で活動をスタートしました。
ミシマサイコは、その根が漢方薬に用いられる生薬:サイコ(柴胡)の基原植物です。柴胡は、中国最古の薬物書『神農本草経』(1〜2世紀頃の編纂?)の上品(長期服用が可能な養命薬)として、また、日本現存最古の薬物辞典本草和名(918年に編纂)にも収載される伝統ある生薬です。
三島は、江戸時代、旧東海道の箱根西坂の宿場町として栄え、箱根山麓〜富士山麓〜天城山麓/伊豆半島で自生・採集され三嶋宿に集荷されていた柴胡の評価が高く、薬草名としてミシマサイコと呼ばれるようになりました。かつては関東以西、四国、九州などの山野に自生していましたが、乱獲され、今や環境省レッドリスト2017では絶滅危惧種�U類 (VU) に指定されています。
私達はこのような現状に鑑み「三島柴胡(ミシマサイコ)」をもっと市民に周知し、環境保全とともに一株でも多くのミシマサイコが街並みを飾ることができればと願っている次第です。
【活動内容】◎ 種蒔き体験・講習会
◎ 地域連携活動の促進
◎ 講演会・勉強会の開催
◎ ミシマサイコ知識の深耕・情報収集
◎ 会員情報交換会
など
《会員募集・お問い合わせ先》
東海道箱根西坂〜三嶋宿「ミシマサイコの会」に興味のある方には会員となって、一緒にこの地域・活動を盛り上げていただきたいと思っております!
どうぞ皆さまのご支援・ご協力、よろしくお願いいたします。
☆正会員:年会費 2022年度より無料
皆さま、一株でも多くのミシマサイコの種蒔きを行い、「夏の豆州の風物詩」可憐な黄色のミシマサイコの花を育んでいきませんか?
⇒「ミシマサイコの会」 mishimasaiko-25@ca.thn.ne.jp
⇒ 会長:星野建司 kenji-hoshino@ny.thn.ne.jp
