【2023/8/6】
庭の手入れも行き届かない中、ミシマサイコは地植えで約1.5m、ポットで70 - 80cmに伸長し、複散形花序に黄色の小花が咲き誇り、暑さをもろともせず元気に夏を乗りきろうとしております。
国連のグテーレス事務総長の発言(2023/7/27)のように「地球沸騰化の夏」、温帯生活に馴染んで育った皆さま、ゆるゆると適応するよう、2023年ご自愛ください。
朝ドラ『らんまん』が面白い!
今夏、私の平日の朝の愉しみは、NHK連続テレビ小説(朝ドラ)『らんまん』を観賞することです。今作は、日本の植物学の草分け「植物学雑誌」を創刊された牧野富太郎(1862−1957)博士をモデルとしたフィクションで、槙野万太郎として神木隆之介さんが好演しています。今週は、万太郎が、東京大学植物学教室の初代教授 田邊彰久から植物学教室への出入りを禁止され、失意のあまりに街を夜通し歩き、世界的な植物学者ロシアのMaximowicz(1827−1891)博士を頼って、ロシアに行くことを決意するところまでストーリー展開されました。この後、万太郎がMaximowicz博士の下で世界に羽ばたくことができるか興味津々です。しかしながら、愛娘の園子ちゃんが病で亡くなるという度重なる苦難にあって来週に展開されております。史実から牧野園子さんは1888年生まれで4歳にて他界したそうで、1892年にお亡くなりになったとすると、Maximowicz博士も前年に他界しており、万太郎のロシア行きはどうなるのでしょうか?
ドラマの展開は、来週のお愉しみとし、要潤さん熱演の田邊教授について、そのモデルである矢田部良吉(1851−1899)教授は豆州(伊豆国)韮山生まれとのことです。矢田部博士の足跡については、国立科学博物館より資料が公開されています。此処では、文明開化の科学者・矢田部良吉の生涯として紹介され、東京大学理学部植物学教授の初代教授として日本へ近代植物学を導入した科学者にとどまらず、専門分野を大きくこえて、明治期の学術・教育界全般にわたる多大な足跡が記されています。英学者・植物学者・教育者・詩人であり、東京大学理学部の初代植物学教授、国立科学博物館の前身である教育博物館初代館長、東京高等女学校校長、東京盲唖学校校長、高等師範学校校長などを歴任する錚々たる履歴の詳細は、国立科学博物館より報告されている ”矢田部良吉デジタルアーカイブ” および ”矢田部良吉年譜稿”を参照されたい。
矢田部博士の父・卿雲(1819?1857)は、蘭学者で、反射炉の築造で著名な韮山代官・江川英龍(1801?1855, 36代太郎左衛門、号坦庵)に重用され、良吉は、1851年(嘉永4)9月19日 伊豆国田方郡韮山に生まれた。幼少期より、江川家が主宰した学塾(江川塾)で修学の途に就き英語と数学を学び、そこで優れた能力を発揮したが、その学び舎は、学童期より江戸の江川邸に寓居しており、伊豆国(豆州)の草花に勤しむ機会は少なかったように思われる。その後、横浜語学所においても引き続き英語と数学を学び、東京大学の前身となる開成学校で教授試補に就き、1870年から76年にかけて米国留学によりコーネル大学で学業を修める過程で、植物学者としての素養が培われた。
東京大学理学部に植物学教室を開設し、植物の標本採集とその同定に必要な文献を集積させ、日本の近代植物学の礎を築き(“国内の植物学会の創立”)、欧米の学問レベルにキャッチアップしようと矢田部教授が大いに貢献されたことは申し上げるまでもないことですが、韮山に生まれた良吉少年が、当時はミシマサイコの自生地も彼方此方に存在していた頃、万太郎少年が土佐の野山を駆け巡ったように伊豆の野山の草花に興味を抱き、本草学も踏まえ、日本の近代植物学を体系化されていたらと、炎暑の日々、想いを馳せています。
“ミシマサイコ”について、牧野博士が命名する対象になく高い関心は示されず朝ドラ『らんまん』に登場することは無いと思いますが、「新牧野日本植物図鑑(2008)」>第834図が繊細に描かれておりました。セリ科について、花の付く枝が放射状に広がり、その先端に沢山の花を付けることで、唐傘花(からかさばな)科と呼ばれたことを初めて知りました。
高知県立牧野植物園の牧野日本植物図鑑インターネット版ページ以外に、“牧野富太郎” x “ミシマサイコ”で検索したところ、高知県仁淀川町 tretre(トレトレ)のウェブサイトにて、牧野植物園オリジナルブレンドティーとしてMishimasaikoティーバッグが販売されていました。ブレンド内容は、ほうじ茶(ツバキ科)、そば茶(タデ科)、ルイボス茶(マメ科)、ミシマサイコの葉(セリ科)というものでした。