【会員紹介】大沼顧問 “ミシマサイコ をたずねて:「ミシマサイコの学習会/ミシマサイコを広める会」〜「ミシマサイコの会」へ”
「ミシマサイコの会」顧問の大沼さんから、「ミシマサイコの会」のルーツにいたる貴重な寄稿を頂きました。昭和12年生まれの大沼さんは、郵便局員として郷土三島を巡る中、三島と名が付く動植物は「なぜ・・消える?」という思いから「三島自然を守る会」の活動の一つとして“豆州ミシマサイコ”を復元しようとスタートアップされました。
【活動のはじまり】三島自然を守る会
代表幹事 大沼倶夫
1 箱根山西麓の歴史
江戸時代、箱根山西麓は豆州一宿五十ケ村の入会地だった。明治政府になって地租改正、官民有区分にて官有地とされた。しかし農民は取り戻すために、ねばり強く異議を申し立てたが二度も却下された。それでも諦めず明治十二年十一月に再申請した結果、同十三年二月に静岡県令によって、明治九年にさかのぼって民有地第一種に編入された。努力して民有地に取り戻したにもかかわらず、入会地七人委員会は同地約98町歩を明治十八年に箱根土地牧場組合に、さらに大正時代に箱根土地株式会社に賃貸した。丹那地震で甚大な被害を被ったことから返還を求める声があがり、三島市議会議員山田重太郎が代表して国土計画(箱根土地株式会社から社名変更)と交渉し戦後になってようやく、箱根峠−十国峠間の専用道路を除きその大半を返還させることができた。(心に残る三島と箱根山 山田重太郎 昭和59年2月24日)
2 箱根を守る会
昭和33年9月に襲った狩野川台風で三島から天城山麓にかけた田方平野は大勢の人々が亡くなる大災害を被った。その記憶も消えない昭和35年に箱根峠の北一帯に芦の湖カントリが開業した。間もなくその土地の一部が別荘地に分譲された。これに関わったのが三島市名誉市民の佐野隆一氏であり、批判が起きたばかりかその数年後には、来光川上流の禁伐林の上に中小企業リクレーションセンターも建設された。開発を危惧するものたちが現地調査をした。その時に「昭和20年代にはこの辺りミシマサイコが自生していた」との話が出た。箱根山の開発を危惧した元国立遺伝学研究所所長木原均博士は東の神奈川県から、児童文学者小出正吾は西の三島から箱根を守る会を立ち上げて箱根山の保護を訴えた。
3 乱開発
昭和45年になると内外タイムス、三島箱根観光開発、丸紅、マルマンロイヤルカントリー、富士緑化など数十社がゴルフ場やレジャー施設などの開発計画が押し寄せた。この計画に反対して三島地区労働組合協議会が立ち上がった。市民もナショナルトラストをめざす三島自然を守る会(1978年) を結成し反対運動を展開した。一方で農民がゴルフ場建設促進協議会を結成し対抗した。建設促進協議会と三島地区労働組合協議会や三島自然を守る会などが話し合っている最中に、三島市議会特別委員会はゴルフ場建設を強行採択した。長谷川泰三市長に替わった奥田吉郎市長が静岡県知事に建設を申請した。当時の自民党実力者金丸信が富士緑化ゴルフ場建設に深く関わったといわれた。最近では観光吊り橋が開業した。2019年の豪雨ではがけ崩れが多発し大場川は決壊の危機に瀕した。箱根山西麓の開発は崖くずれ、氾濫により下流が被害をうけることを示している。
4 箱根連山から達磨山を歩く
三島と名が付く動植物にミシマサイコ、ミシマバイカモ、ミシマオコゼ等がある。
ミシマサイコは薬草であり、三島で売られているミシマサイコは薬効が優れることから、江戸時代東海道を往来する旅人が医者から依頼されて買い求めたといわれる。
ミシマバイカモは楽寿園小浜池に自生いたが、昭和30年代に池が涸れて消滅した。その後、南本町の池(旧三島野戦銃砲連隊長官舎庭)には柿田川から移植された。竹倉川にも自生していが、某氏宅地内の池に柿田川から移植したミシマバイカモが流れて下流の竹倉川に活着したものである。
ミシマオコゼ=深海魚であり、かつては魚店で売られていたが今は見られない。
ゴルフ場建設反対を訴えていたころ、三島と名が付く動植物は「なぜ・・消える?」と疑問を抱き、箱根山の歴史、植生などを調べ、ミシマサイコや箱根独特の動植物の生存を求めて、深良用水から、湖尻、茨ケ平を尾根伝いに、十国峠から遠笠山、皮子平、天城峠、西伊豆スカイラインを達磨山まで何年もかけて歩き回った。かつて箱根山西麓の茅は牛馬の飼料、堆肥、屋根葺材として生活に密着した貴重な植生だった。入会地の人々は下刈り、野焼きなどをして守ってきた。これらに従事した方々からは当時ミシマサイコが至る所あった話を聞いた。
5 文献を読む
今は「心に残る三島箱根山 山田重太郎」があるので容易に箱根山の歴史を知ることができるが、当時は纏まった文献はなく、読むもしんどい「箱根山秣場民有地御定方再願」など古文書を探し求め、「小繋事件(岩波新書)、入会(日本評論社)戒能通孝」、「箱根の樹木と自然(箱根樹木園)木原均」なども読んだ。ミシマサイコは富士箱根要素と関係があるのでなないかと疑問をいだいている。さらに自然保護運動に関わる人には自分の在所に関わる入会地の歴史や争い、入会権の知識不足につけ込まれて資本などに入会地を只同様にとられた話なども聞いた。今はなき菊池周の撮影「映画 小繋事件」はぜひ鑑賞したい。
6 篤農家を訪ねて
三島、函南地区の農業に詳しい方に何気なく「ミシマサイコをたずねて箱根山を歩いている」と話したところ、以前に津村製薬から委嘱されてミシマサイコを試験栽培した篤農家が健在であると教えて下さった。その方と二人で篤農家を訪問して話を聞いた。その時に、ミシマサイコの種が飛んで土手に自生している場所があると教えて下さった。後日自生地といわれる付近を数年間歩き求めたが見つけられなかった。
7 薬局へ
三島、田方、御殿場の薬局も訪ね、ミシマサイコの集荷や販売、地域のミシマサイコに関係する話を聞いて歩いた。御殿場の薬店のご主人は私の努力をほめて下さり、保存してあった5年物のミシマサイコの乾燥根を見本にと4〜5本下さった。長泉町の中土狩薬局の石渡重夫さんは「私も何年もミシマサイコを探し求めて富士山から石廊崎まで歩いた。採種して育苗し、野山に移植して5〜6年先に採根を考え、何年も努力した・・・しかし野山に活着しなかったが、何処に自生しているかは知ることができたと経験を詳しく話して下さった。その時に庭先に2m程に成長したミシマサイコを見せてくださった。後日、いただいた種を庭や畑に撒き、市民にミシマサイコを知っていただくために提供にしているのが現在の種であり、南伊豆産です。
8 ミシマサイコを広める会
石渡さんにいただいた種を庭や畑に蒔いて3〜4年経過した秋に再度、石渡さんにお会いして、「市民にミシマサイコを知っていただくために、ミシマサイコの種を配布し、庭先でミシマサイコを育てる運動をやりたい。ついては講師をしていただけないでしょうかとお願いしたところ、石渡さんは大仁町にある旭化成(株)の研究者田家照生先生にお願いしようと手配して下さった。このような経過をへて第1回ミシマサイコを広める会は開催された(2002年2月24日(日))。第二回学習会を計画したところ、田家先生は「体調をくずしているので講師は石渡さんにお願いして下さい」とのことだった。こうして以後毎年3月にミシマサイコを広める会を開催して種を配布してきた。途中から私が講師を務めてきたが、2014年に熊井陞、星野建司、前島洋之ら3名が引き継いでくださった。いまは星野さんが中心に運営下さっている。
9 今後は
東伊豆町の人々はかつてミシマサイコを大量に出荷していたがいつの間にか出荷しなくなった。最近ミシマサイコに関する古文書が見つかり、もう一度ミシマサイコを復活させようと運動に発展しているとの新聞報道があった。また田方の篤農家が耕作放棄地をミシマサイコ栽培に使用できないかと動き始めたと聞きます。さらにミシマサイコをバイオテクノロジーでハウス栽培はできないであろうかと提言くださる方もあります。
知恵を出し合ってミシマサイコを地場産業までに発展させようではありませんか。