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三島市は、静岡県東部、伊豆半島の基部に位置している。東は田方郡函南町、西は駿東郡長泉町・清水町、南は沼津市・函南町、北は裾野市・神奈川県箱根町に接する。北西には富士山、北東から東に向かい箱根連山が控え、南に狩野川が開析した肥沃な田方平野が広がっている。
三島市街地側に当たる箱根山西麓の台地には旧石器時代からの縄文時代の遺跡が発見され、約27,000年前からこの地に足跡を残していたことがわかってきた。弥生時代以降になると、人々は箱根台地から平地に下りてきて、境川・御殿川・狩野川流域に集落を築くようになった。 三島は古代に伊豆国府が置かれたところで、伊豆国は681年駿河国から分かれて設置された。中世には、三嶋明神すなわち三嶋大社を中心に門前町として発展した。三嶋大社がいかにこの地の中心として繁栄してきたかは、治承4年(1180)源頼朝が伊豆で旗揚げをした時、山木兼隆の夜襲に8月17日の三嶋明神大祭の目を選んだことからも知ることができる。 天正18年(1590)小田原北条氏に代わって関東に入った徳川家康の領地となり、江戸幕府成立後、三島を含む伊豆国の大部分は三島代官の支配を受けることとなった。三嶋明神は文禄3年(1594)には徳川家康から330石の朱印地を与えられ、慶長9年(1604)には200石の増加があり、合せて530石の神領朱印地をもつこととなった。 江戸幕府は幕府を開設するとまもなく慶長6年(1601)正月、三島宿を始めとする東海道のほとんどの宿駅に御伝馬朱印状を出して、宿駅を定め、東海道の整備に着手した。元和4年(1618)箱根宿を設置し、箱根から三島宿に通じる篠道を整備して通行できるようにした。その後、伊豆国中の負担によって延宝8年(1680)石畳を敷いてさらに整備を行った。三島宿は、「天下の嶮」といわれた箱根を控え、東海道の宿場として、また、三嶋明神を起点として下田往還の分岐点として、交通の要地となって栄えた。天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』によると本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠74軒を数え、惣家数1,025軒、人口4,084人と記録されている。 明治22年、東海道本線が開通し、御殿場を経由して沼津駅へ抜けるコースとなったため、三島は人の往来がさびれてしまった。しかし、昭和9年丹那トンネルの開通とともに三島新駅が開業し、さらに昭和44年、新幹線三島駅の設置により、再び三島の街は往時の活気を取り戻すことができた。しかし、近代化の波により町の再編成を促され、昭和40・41・48年の3回にわたる町の編成替えが行われ、旧町が分断・統合され新町が新しい行政区域の自治会として組織されるに至った。現在、市街は郊外に拡張され、東京のベッドタウン化しつつある中で新しい町が生まれ、三島に新しいふるさとを求める人たちも増えている。 |
■三島囃子と三嶋大社
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伊豆の三嶋神は天平宝字2年(758)までに社殿や祭祀の組織が成立していだことが「神事諸家封戸」によってわかる。また、延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳に伊豆国に座している神の筆頭として記載されている。
三嶋明神は、源頼朝が箱根権現・伊豆山権現とともに「三所詣で」として武運長久を祈るため度々訪れていた。また、諸家の寄進を受け、小田原北条氏には手厚い保護を受けていた。小田原北条氏の領地を確認できる史料として『小田原衆所領役帳』がある。この中に「三島領」として御供米78貫文とある。現在の地名に比定できないが長溝、三嶋東分西分にその一部があったことがわかる。また、鶴喰・安久に在庁が10人いて、三嶋明神の鍵取をしていた。さらに、中村にも社領があり、一部を職人衆である円教斎・唐帋藤兵衛、御馬廻衆の渡辺与八が領有していた。 天正18年(1590)、徳川家康が小田原北条氏を攻め、関東に入部した。その家康から三嶋明神は社家・壱丁田村のほか、沢地・幸原・川原ケ谷村の内に朱印地を与えられた。貞享5年(1688)50石の新田改出しがあり、その物成を寛文11年以来の修復料に加えることとなった(寛政5年「日記用留」)。この分は元禄2年(1689)に宮新田の検地として行われた。 三嶋明神は、江戸時代には各社家によって地域を分担し、伊豆一円の村々に御札を配っていた。下田総領事ハリスは、下田在住中である1857年6月、三嶋明神の勧誘員が下田町にやってきて、戸口から戸口へと赴いては、世帯主たちに説教してはお守りを売っている姿を見ている。このように、古くから伊豆と三嶋大社は大きな結びつきの中で現在に至っている。今は、伊豆各地から供米が上げられ、それに対して、豊饒を願って三嶋大社の御札とシャモジが配られる。 三嶋大社の例大祭は旧暦でいう中秋の時期に行われてきたが、現在は新暦で行っているので夏祭りとなっている。平成8年の8月15日から17日の三嶋大社例祭には約50万人の人出があった(三島警察署調べ)。三嶋大社例大祭は中秋の月明りの中で繰り広げられたのは、前述のように源頼朝の旗揚げでも知ることができる。こうした中で、三島囃子は、戦国時代、小田原北条氏の時代である天文年間(1532〜54)に、大場に居住していた三嶋明神の舞々役である幸若与惣太夫によって創曲されたといわれている。舞々役の創曲であるので当時は、幸若舞を演じるための囃子として演奏されたと思われる。天正11年(1583)には、三島周辺の三嶋明神に奉仕する川原ケ谷・谷田・大場・梅名・柿田の各村に対して御囃子の演奏を古来のように勤めるよう促す証文が残されていた。 三嶋大社の代々の宮司家である矢田部家の江戸時代の日記をみると、8月の例大祭の記事については、雨のため流鏑馬を中止したことの記載がある程度である。例大祭は、民衆の祭であったので記録に残らなかったのだろう。寛文9年(1669)、三島の宿中祈祷のため、初めて宿内に山車の引回しが行われた。宿内の山車の引回しは当初ルールを持たなかったので、文化13年(1816)4月・11月の酉祭りにおける祭礼の当番町は18の町を4組に分け、当番町制を定めた。 これをきっかけに、8月例大祭でも当番町制が取り入れられたものと思われる。宿中祈祷のためには、川原ケ谷や柿田など周辺地域の人たちが「シタカタ」として山車に乗り、お囃子を演奏し、宿の旦那衆の門付にあたったものと考えられる。また、町衆はその山車を引いたものであろう。中伊豆町原保で行っているシャギリでも演奏者を「シタカタ」といっている。 現在では、8月15日午後に三嶋大社社頭で神事を行ったあと、当番町の山車はお秡いを受け、それぞれ「神楽昇殿」を奉納演奏する。その後、三島市街の引回しに向かう。かつては、各町が自由に引回していた。山車同士かがち合うと「けんか囃子」で勇壮な競り合いとなった。しかし、これがエスカレートしていったため、今は、互いにかち合わないコースを決めた。夜になって当番町の山車が社頭に一同に集まり、ここで時間を決めて、「競り合い(セリアイ)」を行うことになっている。祭りを盛り上げる「競り合い」の後、山車は、戻り囃子を演奏しながらそれぞれの町に引き上げていく。 |
資料:三島市教育委員会作成「ふるさと民俗芸能ビデオNo.29 三島囃子」より