箱根接待茶屋の森
森の名前は江戸時代、天下の険 箱根山を往来する人や馬を無料でお世話をする「接待茶屋」が存在していたことにより名付けられました。
この地を代々管理してきた鈴木家の末裔である昇氏が、高齢のため世話ができなくなり、多くの人達が利用できることを願って、2005年 土地所有者である箱根山組合に返還しました。
長い間手つかずの状態でしたが、箱根山組合より許可と支援を受け、三島市近隣の15団体による「箱根接待茶屋の森づくり協議会」が発足、整備が始まりました。
その後、2015年に三島フォレストクラブに引き継がれ、この地の自然にふさわしい森をめざし管理作業が進められています。
森の面積は約10ha、標高約700m〜800mに位置し、名称が示すように原則誰もが「森づくりボランティア」として参加できます。
地図はこちら。
この地を代々管理してきた鈴木家の末裔である昇氏が、高齢のため世話ができなくなり、多くの人達が利用できることを願って、2005年 土地所有者である箱根山組合に返還しました。
長い間手つかずの状態でしたが、箱根山組合より許可と支援を受け、三島市近隣の15団体による「箱根接待茶屋の森づくり協議会」が発足、整備が始まりました。
その後、2015年に三島フォレストクラブに引き継がれ、この地の自然にふさわしい森をめざし管理作業が進められています。
森の面積は約10ha、標高約700m〜800mに位置し、名称が示すように原則誰もが「森づくりボランティア」として参加できます。
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箱根接待茶屋の歴史 (出典:森づくり協議会HP)
かつて東海道一の難所といわれた箱根山は、一日がかりでやっと越える急坂の山で、人も馬も苦難を強いられました。代金を取る茶屋は何軒かありましたが昼間だけの営業で、さまざまな通行者が増加するなか、別の施設の必要性が増していました。
箱根西坂に無料で粥や焚火、飼葉を提供する「接待所」が初めて設けられたのは1824年(文政7年)のことです。江戸呉服町の義人加勢屋興兵衛が私財を投じて「人馬施行小屋」として開設し、冬場の寒気の折など往復する人馬はここでの接待を心から喜び、急ぎの飛脚もここの豆だけは必ず食べたと言われています。
しかし、興兵衛の基金を貸し付けた利息で運営されていた接待所は資金の回収が不能となり1854年(安政元年)に30年の歴史を一度閉じ、地元では接待所がなくなり大層不便な思いをしていました。
そして1879年(明治12年)になると下総国(千葉県)八石教会により「接待所」が再興されます。教会は江戸後期の農民指導者、大原幽学が初代教長を努め、農業生産の合理化、農村改革を図る一派でした。教会と門人達が財を投じで接待所を建て、人々に茶をもてなし、冬には暖をとらせました。
1901年(明治34年)、門人の鈴木利喜三郎が引き継ぎましたが、間もなく教会の運営が傾き、接待所への送金が途絶えてしまいます。
ここで、使命感の強い利喜三郎は接待所を続けることを決意し、家族を呼び寄せ、鈴木家の個人経営で運営されるようになりました。この志に感じ、全国から茶や茶碗などの援助の品が送られ、大変助かったそうです。
鈴木家の人々は箱根竹の栽培や養鶏で運営資金を作り、自分たちは質素な生活をして並々ならぬ苦労をしていたのです。この間、道に迷った者、疲れ果てた者など多数の人々がここの茶の一杯に助けられ励まされ、また旅立って行きました。
時代の変化の中でも大変貴重な存在だった接待茶屋も戦後は交通網や施設の充実により東海道の通行量が急激に減り、利用者も減り続けます。そして1970年(昭和45年)ついに接待茶屋の歴史が幕を閉じることになりました。
近年、接待茶屋のすぐ横を通る国道1号線の拡張に伴い、接待茶屋の建物は取り壊されてしまいましたが、その後の発掘調査により、江戸末期の井戸や明治期の陶器などが出土しました。100年以上に渡り、往来する人々に奉仕してきた接待茶屋の森の豊かな自然を私たちはこれからも守り続けていきたいと思います。
箱根西坂に無料で粥や焚火、飼葉を提供する「接待所」が初めて設けられたのは1824年(文政7年)のことです。江戸呉服町の義人加勢屋興兵衛が私財を投じて「人馬施行小屋」として開設し、冬場の寒気の折など往復する人馬はここでの接待を心から喜び、急ぎの飛脚もここの豆だけは必ず食べたと言われています。
しかし、興兵衛の基金を貸し付けた利息で運営されていた接待所は資金の回収が不能となり1854年(安政元年)に30年の歴史を一度閉じ、地元では接待所がなくなり大層不便な思いをしていました。
そして1879年(明治12年)になると下総国(千葉県)八石教会により「接待所」が再興されます。教会は江戸後期の農民指導者、大原幽学が初代教長を努め、農業生産の合理化、農村改革を図る一派でした。教会と門人達が財を投じで接待所を建て、人々に茶をもてなし、冬には暖をとらせました。
1901年(明治34年)、門人の鈴木利喜三郎が引き継ぎましたが、間もなく教会の運営が傾き、接待所への送金が途絶えてしまいます。
ここで、使命感の強い利喜三郎は接待所を続けることを決意し、家族を呼び寄せ、鈴木家の個人経営で運営されるようになりました。この志に感じ、全国から茶や茶碗などの援助の品が送られ、大変助かったそうです。
鈴木家の人々は箱根竹の栽培や養鶏で運営資金を作り、自分たちは質素な生活をして並々ならぬ苦労をしていたのです。この間、道に迷った者、疲れ果てた者など多数の人々がここの茶の一杯に助けられ励まされ、また旅立って行きました。
時代の変化の中でも大変貴重な存在だった接待茶屋も戦後は交通網や施設の充実により東海道の通行量が急激に減り、利用者も減り続けます。そして1970年(昭和45年)ついに接待茶屋の歴史が幕を閉じることになりました。
近年、接待茶屋のすぐ横を通る国道1号線の拡張に伴い、接待茶屋の建物は取り壊されてしまいましたが、その後の発掘調査により、江戸末期の井戸や明治期の陶器などが出土しました。100年以上に渡り、往来する人々に奉仕してきた接待茶屋の森の豊かな自然を私たちはこれからも守り続けていきたいと思います。